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  • 2012.07.06 Friday
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つたえようヒロシマ・ナガサキ 東京原爆展

つたえようヒロシマ・ナガサキ 東京原爆展

7月20日より都庁展望室にて開催

東友会が主催する都庁展望室での原爆展は、結成50周年事業として2009年2月に開いて以来今回で5回目です。
核をめぐっては、アメリカが新型の臨界前核実験をくり返し、イラン、北朝鮮の核兵器開発に国際的な危惧が高まり、日本では福島第一原発の事故で放射線被害の恐怖が広がる中、広島・長崎の原爆被害にも再び関心が高まっています。
今回の原爆展では、日本被団協が作成した新しい「原爆と人間」パネル、被爆者が被爆の惨状を描いた絵や手記、被爆した現物資料などを展示します。
お誘い合わせてご来場ください。

日時:7月20日(金)〜24日(火) 午前9時30分から午後5時まで
(初日の20日は午後1時開場、最終日の24日は午後3時まで)

会場:都庁第1本庁舎45階南展望室(新宿区西新宿2-8-1)

入場は無料です。


主催:一般社団法人東友会



第20回 被爆者と区民との交流セミナーのお知らせ







「2012 ピースアクション in TOKYO」&「ピースパレード」

 

映画『内部被ばくを生き抜く』

鎌仲ひとみ監督最新作の

『内部被ばくを生き抜く』が完成! です。


   ★4月28日(土)DVD発売開始!
   ★同時に発売記念上映@渋谷UPLINK開催決定!

□日時:4/28(土)〜5/4(金祝) 連日14:50 ※4/30(月祝)のみ10:15    
    5/5(土)〜 連日12:40


*本日4月28日です。渋谷UPLINKに行ってきます。





試写会「原爆症認定集団訴訟の記録 にんげんをかえせ」に行ってきました。

 原爆による放射線の影響を認めない政府と、命を賭けてたたかう被爆者たちのドキュメンタリーです。
内容及び当日などは ↓ に詳細に載っています。DVDを購入しましたので見たい方はお知らせください。柵木
http://genbakusosyounokiroku-move.blogspot.com/2011/12/blog-post_9739.html




*映画を見た後、何故これほどまでに、国は原爆症認定をしないのか?の問いに、アメリカにも配慮し、核実験もできるよう、核兵器の効力をなるべく小さく、残留放射線の影響を隠したい!? という答え…考えました。






第19回被爆者と区民の交流セミナー

 

「原爆症認定集団訴訟の記録 にんげんをかえせ」試写会のご案内

被爆者たちの活動を撮った磯部元樹氏の膨大な映像記録を、「つるにのって」「アンゼラスの鐘」の有原誠治監督が80分の作品に構成、演出したのが本作品です。
 
高齢となった被爆者たちが「私の病気は原爆によるもの」と主張して日本政府に 対して2003 年に全国で裁判を起こしたのが、原爆症認定集団訴訟。
 
原告となった被爆者たちは、病に倒れながらも次々と裁判で勝利し続けて政府・厚生労働省を追いつめ
 
2008 年3 月、ついに原爆症認定基準を改定させます。
 
雨の日も風の日も、街頭に立って訴え続ける命をかけた被爆者たちの姿が胸を熱くします。
 
11月に開催された被爆者の声をうけつぐ映画祭のオープニングで初公開。「集団訴訟の勝利は、フクシマの今後にも貴重なものであったとつくづく思う」など好評でした。
 
もっと多くの方にご紹介するきっかけとして、下記の要綱で試写会を開催しますので、この機会にご鑑賞願えれば幸いです。
 
◆◆◆「原爆症認定集団訴訟の記録 にんげんをかえせ」試写会◆◆◆
 
日時:2 月4 日(土)17:30〜19:30(入場無料)
 
会場:味覚糖UHA 館5Fシアター(97席)
 
(JR浜松町駅徒歩5分。地下鉄大門駅徒歩2分)
 
http://www.uha-tokyo.com/index.html

 
*上映後、有原監督や関係者の挨拶があります。
 
*参加される方は、原爆症認定集団訴訟の記録製作委員会までメールにてご一報いただけると幸いです。
 
*上映開始後、及び満員の際の御入場はお断りする場合がございます。御了承ください。
 
「原爆症認定集団訴訟の記録 にんげんをかえせ」 2011年/80 分/1 6:9/カラー
 
監督:有原 誠治
 
撮影:磯部 元樹、玉木 英子
 
製作:「原爆認定集団訴訟の記録」製作委員会
 
予約・問合先:
 
〒177-0033 東京都練馬区高野台3-11-12 采明ビル2Bアニメ活動センター気付
 
原爆症認定集団訴訟の記録製作委員会
 
メール:canima2b@gmail.com
 
Tel:03-6915-9281 Fax:03-6915-9282


 

被爆者の歩み後世に

 被爆者の証言や記録、核兵器廃絶と原爆被害の国家補償を求めるたたかいを収集し、平和のために普及・
活用する「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の設立に向けた記者会見が25日、東京都内で開かれ
ました。

 同会は12月10日に設立総会を予定。「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産平和資料センター」の設立に向けて
資料収集や諸施設とのネットワークづくりをすすめます。この活動を基礎に、公共機関としての平和資料館の
設立をめざします。

 この日の会見には、呼びかけ発起人の4氏が参加しました。

 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の岩佐幹三(みきそう)代表委員は「一日も早い核兵器廃絶の
実現に貢献したい」、作家の大江健三郎氏は「フクシマがあった今、一番頼りになるのが被爆者だ」と発言。
立命館大学の安斎育郎名誉教授は「被爆者の個の記憶を徹底的に収集し、人間の顔をしたムーブメントと
したい」、日本被団協の肥田舜太郎顧問は「放射線被害の怖さを知らせたい」と語りました。

 同会には、24日までに池辺晋一郎(作曲家)、香山リカ(精神科医)、瀬戸内寂聴(作家、僧侶)、吉永小百合
(俳優)の各氏ら、発起人を含め111人の著名人が呼びかけ人に名を連ねています。

伝えようヒロシマ・ナガサキ 東京原爆展

8月の広島、長崎での話題にも一応区切りがつき、見渡せば東京でも…情報のご紹介です。

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伝えようヒロシマ・ナガサキ 東京原爆展
  2011年11月3日(木)〜7日(月) 都庁展望室にて開催

ヒロシマ・ナガサキの悲劇をけっしてくり返させないこと――。

これは被爆者の悲願であり、そのために様々なことに取り組んできました。

今回の原爆展は、原爆被害の実相をわかりやすくまとめた「原爆と人間展」パネルや被爆現物資料などに加え、昨年5月にニューヨークで開かれたNPT(核不拡散条約)再検討会議に合わせて国連本部ロビー・メインギャラリーで開かれた国連原爆展に使われたパネルを展示します。

世界の世論は核兵器廃絶の方向へ動き始めてはいますが、アメリカが臨界前核実験を再開するなど、もっとも責任のある核兵器保有国はいまだ本腰を入れているとは言い難い状況にあります。

このようなとき、被爆国日本の首都・東京の都庁展望室で原爆展を開こうとする被爆者の気持ちをおくみとりいただき、ひとりでも多くの方々にご参加いただきたく、心から呼びかけるものです。


2009年2月に東友会結成50周年記念事業として初めて都庁展望室で開いた「伝えようヒロシマ・ナガサキ東京原爆展」は大好評で、その後も年1〜2回ずつ、都庁展望室をお借りして開催し、そのたびに「もっと開いてほしい」などの要望と励ましをいただいてきました。

今年の開催日程は下記の通りです。入場無料です。ぜひお誘い合わせの上、ご来場ください。


日時

2011年11月3日(木)〜7日(月) 午前9時30分〜午後5時(入場は午後4 時30 分まで)
(初日3日は午後1時から、最終日7日は午後3時まで)

場所
東京都庁第一本庁舎45階南展望室 (新宿区西新宿2-8-1)
JRほか各線「新宿」駅西口から徒歩約10分、都営地下鉄大江戸線「都庁前」下車すぐ

主催
東京都原爆被害者団体協議会・社団法人東友会

後援
東京都/広島市/長崎市

協賛
東京都生活協同組合連合会/東京都地域婦人団体連盟



二度と原爆は使ってはいけない

 

こんにちは!
今年8月8日NHK放送分の「二度と原爆は使ってはならない」を紹介させてください。

占領軍GHQ​長崎軍政部司令官でありながら、 昭和23年の第1回長崎平和祈念式典を長崎市に許可した「ビクター・デルノア中佐」のお話です。
(ところが、あまりにも文章が下手で、テレビ録をされていた方のコピーです。ごめんなさい!)

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長崎平和公園。8月9日毎年平和の祈りがささげられる。

昭和23年、初めてここで祈りのきっかけを作ったのは、長崎占領軍司令官のデルノアである。

今年1回目の式典での原稿が発見された。そこには「核兵器は無用の長物である。二度と使ってはならない」と書かれていた。

言論の規制が行われていたが、長崎の少女の作文を出版しようとした。

軍人でありながら、何故国の方針に逆らってまでそうしたのか?

デルノアは1枚の絵を残している。原爆で焼かれた礼拝堂の絵だ。その絵を所持する娘が、今年長崎を訪問した。

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娘のパトリシアは1歳の誕生日を前に長崎からアメリカに引越ししたため、長崎の記憶は無い。

パトリシアは自分の目で「長崎」を確かめたいと思った。

昭和20年8月9日、広島に続き長崎に原爆が投下された。数千度の熱風と爆風、放射線が襲った。デルノアはその1年後にGHQの司令官として長崎に赴任した。

竹内敏郎さんが通訳に当たったが、第一印象は「いかにも軍人」だったという。

1939年第二次世界大戦勃発。2年後にアメリカも参戦。デルノアはフランスに中佐として派遣されて、ドイツ軍と戦った。連勝して味方の兵士を救った武勲をたてた。戦場での功績を認められ、いくつも勲章を受けて、輝けるアメリカのひとつの象徴だった。

アメリカを信じ、日本に自由と民主主義を根付かせるためにとやってきた。

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ある日デルノアは引き取り手の無い遺体を供養する法要に参加。

そのときの遺族の悲しみ、1万体の遺体と嘆き悲しみ遺族達を目にして動揺を隠せなかった。両親に手紙でそのときの様子を伝えている。

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高原至さん87歳と面談するパトリシアさん。高原さんは「お父さんに良く似ている。」と印象を語る。高原さんは当時記者で長崎をくまなく歩き回った。デルノアさんにはところどころで出くわしたという。

「彼は目線を同じにして見ていた。今になって思うと」

長崎医科大学付属病院、8月9日は何千人もの被爆者が訪れ、有効な手当ても無いなか、次々と亡くなっていった。そういう状況を高原さんが語り、パトリシアさんは涙を流す。

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デルノアさんがそういった光景を見たのは初めてではなかった。

デトロイトに住むビル・ウィリアムズさん89歳。戦車の記録部隊として従軍した。

フランスからドイツ、オーストリアと進軍。その途中の町で強烈な悪臭をかいだ。死体を燃やす匂いではないかとウィリアムズさん。

「ブーヘンバルトの収容所だったと思います。」

ドイツ・ワイマールから数キロはなれた場所にそれはあった。

強制収容所では強制労働や人体実験で死んでいった。その数55000人。

奇跡的に生き残ったボルグさん。親衛隊は収容所の全員を殺戮するよう命じられた。アメリカ兵がやってきたときにまだ生きていたのは2000人たらず。みなやせこけて、見るに忍びない状態だった。デルノアさんはこのときの気持ちを両親に手紙で伝えた。「ナチスの馬鹿野郎。なんてことをしやがる。」

パトリシアさんは父の足跡を追う。

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内田伯さん86歳、案内人をしている人に聞く。当時内田さんは15歳。爆心地から15Mの場所に自宅があった。仕事の場所から戻ったら、跡形は無く、家にいたはずの父親、弟や妹の姿も無かった。遺体はおろか遺骨すら無かった。「夢であって欲しい。と今でも思う。ひとりの人間としてやりきれない思いをずっと抱えてきた。」

内田の母親は夫と子供たちの位牌を作ってもらった。「多くの人から惜しまれて亡くなるのが普通。こんな無残な方法で・・・。例えようの無い無念さが小さい位牌に閉じ込められている。」

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翌日、内田さんはパトリシアさんたちを案内し長崎市原爆無縁死没者の施設に行く。許可を得て中を見せてもらう。そこには遺骨が納められていた。8000余もある。身元の分からない遺骨、身元がわかっても引き取り手の無い骨。あの日から66年経った今も安息の場所は無い。

パトリシアの日記「私はそこを動くことができなかった。父は長崎の話をしなかったけど、たとえ話そうとしても話すことができなかったんだと思う。」

ヒトラーの率いるナチスを倒し、自由と民主主義を掲げたアメリカが、長崎でナチスと同じようなことをしたことにデルノアは衝撃を受けた。

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長崎からアメリカに戻ったデルノアは驚くべき行動に出る。

ひとりの被爆者が書いた手記を出版するよう、上層部に働きかけた。

手記を書いたのは石田雅子さん。14歳で被曝した。雅子さんの兄の攘一さんが沖縄に存命だった。

しかしアメリカはそれを聞き入れることは無かった。

ジョン・ダワーMIT教授はいくつかの理由があったと考える。

“進憧蕎陲硫仄錣砲覆襪茲Δ覆海箸榔J辰垢襦

原爆の言論統制をしていた時期は東京裁判が行われていた時期と重なる。

その状況で上層部に掛け合うことはとても勇気のいることだったろうと教授。

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その後の東西冷戦、核実験の挙行は、地球破滅の危機を孕んできた。

デルノアは再び動いた。それが「二度と原爆を使ってはいけない。」という長崎を見てしまった軍人としてより人間としての発露だった。

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パトリシアさんは父が残した絵の場所を尋ねる。原爆で焼かれた教会だ。

パトリシアは長崎で生まれ洗礼を受けた。デルノアはパトリシアのことを「ナガサキベィビー」と呼んで可愛がった。

デルノアは昭和24年にアメリカに帰国するが、その送別会に石田雅子さんの父親が呼ばれた。

父親は「パトリシアさんは長崎の子です。そのことを伝えてください。」とデルノアに語ったという。

デルノアはずっと大事に絵を持っていて、それをパトリシアに「お前が持つべき時が来た。」と渡したという。

パトリシアは今その意味を理解した。

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1998年83歳でデルノアは世を去った。晩年、取材に訪れた記者に「(原爆を落とした)トルーマンは間違いを犯した。」と語ったという。

デルノア「約束しようではありませんか。二度と原爆を使ってはいけない。」

 


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