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  • 2012.07.06 Friday
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二度と原爆は使ってはいけない

 

こんにちは!
今年8月8日NHK放送分の「二度と原爆は使ってはならない」を紹介させてください。

占領軍GHQ​長崎軍政部司令官でありながら、 昭和23年の第1回長崎平和祈念式典を長崎市に許可した「ビクター・デルノア中佐」のお話です。
(ところが、あまりにも文章が下手で、テレビ録をされていた方のコピーです。ごめんなさい!)

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長崎平和公園。8月9日毎年平和の祈りがささげられる。

昭和23年、初めてここで祈りのきっかけを作ったのは、長崎占領軍司令官のデルノアである。

今年1回目の式典での原稿が発見された。そこには「核兵器は無用の長物である。二度と使ってはならない」と書かれていた。

言論の規制が行われていたが、長崎の少女の作文を出版しようとした。

軍人でありながら、何故国の方針に逆らってまでそうしたのか?

デルノアは1枚の絵を残している。原爆で焼かれた礼拝堂の絵だ。その絵を所持する娘が、今年長崎を訪問した。

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娘のパトリシアは1歳の誕生日を前に長崎からアメリカに引越ししたため、長崎の記憶は無い。

パトリシアは自分の目で「長崎」を確かめたいと思った。

昭和20年8月9日、広島に続き長崎に原爆が投下された。数千度の熱風と爆風、放射線が襲った。デルノアはその1年後にGHQの司令官として長崎に赴任した。

竹内敏郎さんが通訳に当たったが、第一印象は「いかにも軍人」だったという。

1939年第二次世界大戦勃発。2年後にアメリカも参戦。デルノアはフランスに中佐として派遣されて、ドイツ軍と戦った。連勝して味方の兵士を救った武勲をたてた。戦場での功績を認められ、いくつも勲章を受けて、輝けるアメリカのひとつの象徴だった。

アメリカを信じ、日本に自由と民主主義を根付かせるためにとやってきた。

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ある日デルノアは引き取り手の無い遺体を供養する法要に参加。

そのときの遺族の悲しみ、1万体の遺体と嘆き悲しみ遺族達を目にして動揺を隠せなかった。両親に手紙でそのときの様子を伝えている。

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高原至さん87歳と面談するパトリシアさん。高原さんは「お父さんに良く似ている。」と印象を語る。高原さんは当時記者で長崎をくまなく歩き回った。デルノアさんにはところどころで出くわしたという。

「彼は目線を同じにして見ていた。今になって思うと」

長崎医科大学付属病院、8月9日は何千人もの被爆者が訪れ、有効な手当ても無いなか、次々と亡くなっていった。そういう状況を高原さんが語り、パトリシアさんは涙を流す。

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デルノアさんがそういった光景を見たのは初めてではなかった。

デトロイトに住むビル・ウィリアムズさん89歳。戦車の記録部隊として従軍した。

フランスからドイツ、オーストリアと進軍。その途中の町で強烈な悪臭をかいだ。死体を燃やす匂いではないかとウィリアムズさん。

「ブーヘンバルトの収容所だったと思います。」

ドイツ・ワイマールから数キロはなれた場所にそれはあった。

強制収容所では強制労働や人体実験で死んでいった。その数55000人。

奇跡的に生き残ったボルグさん。親衛隊は収容所の全員を殺戮するよう命じられた。アメリカ兵がやってきたときにまだ生きていたのは2000人たらず。みなやせこけて、見るに忍びない状態だった。デルノアさんはこのときの気持ちを両親に手紙で伝えた。「ナチスの馬鹿野郎。なんてことをしやがる。」

パトリシアさんは父の足跡を追う。

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内田伯さん86歳、案内人をしている人に聞く。当時内田さんは15歳。爆心地から15Mの場所に自宅があった。仕事の場所から戻ったら、跡形は無く、家にいたはずの父親、弟や妹の姿も無かった。遺体はおろか遺骨すら無かった。「夢であって欲しい。と今でも思う。ひとりの人間としてやりきれない思いをずっと抱えてきた。」

内田の母親は夫と子供たちの位牌を作ってもらった。「多くの人から惜しまれて亡くなるのが普通。こんな無残な方法で・・・。例えようの無い無念さが小さい位牌に閉じ込められている。」

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翌日、内田さんはパトリシアさんたちを案内し長崎市原爆無縁死没者の施設に行く。許可を得て中を見せてもらう。そこには遺骨が納められていた。8000余もある。身元の分からない遺骨、身元がわかっても引き取り手の無い骨。あの日から66年経った今も安息の場所は無い。

パトリシアの日記「私はそこを動くことができなかった。父は長崎の話をしなかったけど、たとえ話そうとしても話すことができなかったんだと思う。」

ヒトラーの率いるナチスを倒し、自由と民主主義を掲げたアメリカが、長崎でナチスと同じようなことをしたことにデルノアは衝撃を受けた。

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長崎からアメリカに戻ったデルノアは驚くべき行動に出る。

ひとりの被爆者が書いた手記を出版するよう、上層部に働きかけた。

手記を書いたのは石田雅子さん。14歳で被曝した。雅子さんの兄の攘一さんが沖縄に存命だった。

しかしアメリカはそれを聞き入れることは無かった。

ジョン・ダワーMIT教授はいくつかの理由があったと考える。

“進憧蕎陲硫仄錣砲覆襪茲Δ覆海箸榔J辰垢襦

原爆の言論統制をしていた時期は東京裁判が行われていた時期と重なる。

その状況で上層部に掛け合うことはとても勇気のいることだったろうと教授。

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その後の東西冷戦、核実験の挙行は、地球破滅の危機を孕んできた。

デルノアは再び動いた。それが「二度と原爆を使ってはいけない。」という長崎を見てしまった軍人としてより人間としての発露だった。

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パトリシアさんは父が残した絵の場所を尋ねる。原爆で焼かれた教会だ。

パトリシアは長崎で生まれ洗礼を受けた。デルノアはパトリシアのことを「ナガサキベィビー」と呼んで可愛がった。

デルノアは昭和24年にアメリカに帰国するが、その送別会に石田雅子さんの父親が呼ばれた。

父親は「パトリシアさんは長崎の子です。そのことを伝えてください。」とデルノアに語ったという。

デルノアはずっと大事に絵を持っていて、それをパトリシアに「お前が持つべき時が来た。」と渡したという。

パトリシアは今その意味を理解した。

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1998年83歳でデルノアは世を去った。晩年、取材に訪れた記者に「(原爆を落とした)トルーマンは間違いを犯した。」と語ったという。

デルノア「約束しようではありませんか。二度と原爆を使ってはいけない。」

 


宇宙(そら)の約束

こんにちは!

遅くなりましたが、【平和への祈り・まつりの輪 2011】で、
柳美穂さんが朗読してくれた「宇宙(そら)の約束」をアップします。

山元加津子さんという養護学校の先生が般若心経を心で訳したという詩だそうですね。

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 宇宙(そら)の約束
心訳・般若心経「山元加津子」

自分の身体のその奥に
確かに確かに座っている
大きな宇宙の約束が
いつもいつもささやいている

いつかのいい日の明日のために
いつもいつもささやいている

忘れないでね
大切なのは
心の目と心の耳をすますこと
そして自分を信じること

むかしむかしのことでした
心の目と心の耳をすましたある人が
宇宙の約束とつながって
本当のことに気がついた
すべてのものは どれもみんな
その約束からできている

約束は目にも見えず 重さもなくて
あるのかないのか わからないけど

でも 宇宙の何もかもが
この約束からできている

「いいことに気がついちゃった」とその人は
苦しまなくてもいいんだなあ
悩まなくてもいいんだなあと
とてもうれしくなりました

宇宙に散らばっている
たくさんのつぶつぶは
約束のもとに集まって
海を作り 山を作り 花を作り 人を作る
約束は 目にも見えず
重さも持っていないけど
風をそよがせ 雨を降らせ
ときには星を輝かせる

誰かと誰かを出会わせて
誰かと何かを出会わせて
涙や笑顔を作り出す


私とあなた あなたとお花 お花と石ころ
みんな同じ
同じものでできている
違うのは
だれもが持ってる約束の

私が私である場所(とこ)や
花が花である場所(とこ)に
光があたっただけのこと
スイッチが入っただけのこと

あなたは私だったかもしれないし
私はもしかしたら
庭に咲くたんぽぽや
降る雪だったかもしれないね

約束は私を作り
私の中に 宇宙の約束が座っている
すべてのものが 約束の中にあり
約束はすべてのものの中にある

でもね
忘れちゃいけないの

約束には無駄がなく
必要なものだけを
いつもちゃんと作ってる

花がそこに咲くことは
それが大切だという証(あかし)
私がここにあるということは
それが必要だという証(あかし)

宇宙の約束とつながって
過去と今
今と未来
すべてのことを
見渡すことができたとき
きっときっとわかること

すべてのことは
いつもいつも
いつかのいい日のためにある

うれしいことも 悲しいことも
きれいなことも 汚れたことも
増えることも 減ることも
その約束の現れだけど
現れているすべてのことが
いつかのいい日のためにある

だから思うの

生きていると
いろんなことが あるけれど

楽しいことも 苦しいことも
悲しいことも うれしいことも
雨や 雪や 月の光が
空から降ってくるように
手をひろげて受けとめていけばいいんだね

怖がらなくてもいいんだよ
悲しまなくてもいいんだよ
だってすべてがだいじょうぶ
すべてがみんなだいじょうぶ


揺れる、歌う、踊る、祈る
跳ねる、描く、回る、思う
約束と つながっていく方法は
いつも私の中にある

揺れて踊って、飛んで思って
心の目と 心の耳が開いてく
そして本当のことを知る

さあ明日へ歩きだそう
大切なのは
心の目と心の耳をすますこと
そして自分を信じること

花が咲くように 雪が舞うように
月が照るように あなたといたい

鳥が飛ぶように 風が吹くように
海が歌うように あなたといたい

広い宇宙の中で 長い時間の中で
あなたと出会えたこと
きっときっと宝物

星があるように 山があるように
空があるように あなたといたい


平和利用なんて無い!

広島で8月6日・前夜・ホテルの部屋でテレビを見ていました。
若いころ涙して読んだ被爆体験集「原爆の子」を手にして話されている方の映像でした。
思わず見入ってしまいました。
被爆者の方でさえ「原爆への怒り」が原子力発電という「平和利用」を積極的に肯定することで心の安定を保ってきたというのです。


以下、中国新聞からです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「原子力はおそろしい。悪いことに使えば人間はほろびてしまう。でも、よいことに使えば使うほど人類が幸福になり、平和がおとずれてくるだろう」

原爆投下から6年後の1951年に出版された被爆体験集「原爆の子」。田辺雅章さん(73)=広島市西区=が中学2年のときにつづった原子力の平和利用への期待は、約千点の作文から収録作品(105編)に選ばれた。

60年を経た今。「自らの認識を恥じている。『平和利用』なんてまやかしだった」。田辺さんは本を手にとり、絞り出すようにそう言った。3月に起きた福島第1原発事故。4カ月をすぎてなお、放射性物質をまき散らしている。

生家は旧広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の東隣にあった。山口県内に疎開中、実家のほぼ真上で原爆がさく裂。2日後に家族を捜すため祖母と一緒に焼け跡に入り、残留放射線を浴びた。その後、下痢や発熱の急性症状に苦しんだ。

 完全復元は無理

7歳で両親と弟、家を失う経験は過酷すぎた。「原爆さえなければ」。やり場のない怒りに胸が張り裂けそうだった。しかし「平和利用」を積極的に肯定することで心の安定を保ってきたという。

自宅もあった爆心直下の街並みや暮らしをコンピューターグラフィックス(CG)で「復元」する事業を97年から主導。現在、手掛けているのは爆心地から半径1キロだ。その作業をしながら福島の避難住民に思いをはせ、胸が痛い。「失われた街の完全な『復元』は無理。命や健康だけでなく、古里の文化や歴史をも奪うのが放射能だから」

 兵器に絞り行動

56年の日本被団協結成大会。大会宣言は「破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向かわせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」とうたった。

現在の田中熙巳(てるみ)事務局長は「自分たちを悲惨な目に遭わせた核を、今度は平和のため生かしてほしい。被爆者の間に、そんな気持ちがあったと思う」と振り返る。

健康被害や生活苦、差別に苦しんでいた被爆者たちはその後も、援護と国家補償、核兵器廃絶を訴え、運動を発展させた。しかし60年代、原水爆禁止運動が内部対立を深めたあおりで、日本被団協も分断の危機に直面する。

「大同団結して核兵器をなくすという一点に絞り、何とか統一して行動するしかなかった。自然と原発の話題はアンタッチャブルになった」

核兵器の恐怖を知る当事者ですら「平和利用」について賛否の強い意思を示せていなかった。それは被爆者が個人、組織として生き抜くための苦渋の選択でもあった。日本被団協が「脱原発」に踏み込んだのは、福島第1原発事故から3カ月たってからだった。(金崎由美、山本洋子)

    

収束の兆しが見えない福島第1原発事故。
原爆で放射線の恐怖を身をもって知り、反核・平和を訴えてきたヒロシマに与えた影響を探る。


ぐるぐるLOVEヘヴン


   『ぐるぐるLOVEヘヴン』     ゴイチ



ぐるぐるLOVEヘヴン、ぐるぐるLOVEヘヴン 暗闇の森の奥の奥


ぐるぐるLOVEヘヴン、月の闇を写す鏡の沼のほとり


咲いた毒キノコ  広島の空に  ベトナムの森に


狂い咲く愛、愛、愛、  奪い愛、愛、愛、  


いがみ愛、愛、愛、   押しつけ愛


色も鮮やかな胞子を撒き散らす   


ぐるぐるLOVEへヴン

 

 


ぐるぐるLOVEヘヴン、ぐるぐるLOVEヘヴン 螺旋を描き地中の奥深く


ぐるぐるLOVEヘヴン、根を張り巡らし不満を吸い上げて


咲いた毒キノコ  摩天楼のビルに   砂漠のモスクに


やり返し愛、愛、愛  うさの晴らし愛、愛、愛


罪のなすり愛、愛、愛  我の張り合い


絡まり合う愛の、愛の二重螺旋


ぐるぐるLOVEヘヴン


ぐるぐるLOVEヘヴン


ぐちゃぐちゃなHELLエデン

 


愛に似せ  型取られ  作られた僕たちは


アガペの泥沼に  身を沈めながら


許し愛、愛、愛  わかち愛、愛、愛


欲しがり愛


木漏れ日ひとすじ  光の射す方へ


ぐるぐるLOVEヘヴン


夾竹桃


 

 広島市の花になっているこの "夾竹桃"

原爆が投下され、この地には何十年も草木は生えないだろうと
言われていたなかでも
いち早く
根をはり、葉をつけ、花を咲かせた植物。


 広島の街にはこの花があちらこちらに咲いています。


 広島に何度か足を運ぶうちに
この木から見た広島の街、人、平和
たくさんのものを
語りかけられているような
そんな気がして

作詞作曲なんてしなかった自分が初めて
このメッセージを伝えたい
そんな思いでつくっていきました。


 今年の4月に太鼓の仲間とボランティアで行った岩手、宮城
津波で根こそぎ消えてなくなってしまった街

原爆が投下され消え去ってしまった広島の街と
津波で何もかも消え去ってしまった街

同じように思え
またいっそうこの唄に
いろいろな自分の気持ちが入りました。



『夾竹桃』
 

この街に降りそそぐ 黒い雨
僕の散らばった体
この体もとに 戻るなら
傘になり 君を守ることができるのに
空へと舞い上る 幾千のみたま
君の流す涙は とてもあたたかく
僕にふりそそぎ 
僕は あきらめずに 目をあける

ずっとこの場所で
僕は待っているよ
風に揺れる花びらが
幸せの空を 飾るまで


愛する人たちが迷わぬように
赤く 赤く 僕は 花咲かす
きっとここにまた
街はよみがえるよ
愛でゆれる花びらが 茜色の夏に笑うまで

根をはり 葉をつけ 花咲かせ
いつもの幸せが戻ってくるように
愛する人たちが 迷わぬように
僕は あきらめず
ずっとここで待っているから



http://youtu.be/nxJ6U_Wjn-o

M!sa


マナ・オリさん

【平和への祈り・まつりの輪】も無事に終わり、次の日には只道さんに託された「千羽鶴」を持って、片桐さんと旧広島市民球場に行ってきました。

昨年、只道さんとお友達になったオランダ人アーティストのマナさんにお会いするためです。

只道さんからのプレゼントの千羽鶴をマナさんに渡し、広島経済大生と2千羽の折り鶴をつなぎ球場を囲むマナさんのアート展示も見てきました。

わたし、鶴を揃えたいんですがね〜



つながった折り鶴が球場を囲んでます〜 外周は約600メートルのようです。


風で横になってますね。ちょうど読めます。高校生の皆さんの平和のメッセージです。


マナさんの作品でホッと一息です。

そして、そこでは1日で1万羽の折り鶴を折るギネス挑戦もしていました。

只道さんの千羽鶴の梱包のために離れてしまった、鶴と鶴の間の糸通しを直す暇もなく、マナさんに「あなたも折って折って」と言われて片桐さんと鶴も折ってきました。


写真の内容が前後していますが、ギネス挑戦の「折り鶴10000羽」の垂れ幕をお見せしたくて、ここに載せましたよ。


皆さんも一生懸命折っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして9日、今度は長崎の原爆資料館でマナさんの作品「連鶴」にお会いしました。

館内の回り階段の壁にずっとマナさんが寄贈した連鶴が!
幅15cm、長さ150mの一枚の紙で折られているとあります。
感動です!






マナさんは折り鶴で平和を訴えているんですね。
昨年は広島経済大学の学生さんと、折り鶴の早折り世界記録に挑戦して、100羽を54分30秒で
新記録を達成したそうです。


からす

 あつこブログより

関東大震災で、流言誹言のため殺された多くの朝鮮人を描いた絵画が、丸木夫妻の「からす」だと思っていた。ところが恥ずかしい勘違いで、「原爆の図」の15連作のうちの14番目の作品だった。

今回の大震災で、亡くなってなお被ばくし累々と重なった無念の遺体を想像したとき、丸木夫妻の原爆の図はもとより「アウシュビッツの図」「水俣の図」「おきなわの図」が一斉に生の声を放った。

今朝、図録を開くと「水俣・原発・三里塚」という一連の作品があった。そこには、人間の怨が溢れ出している。丸木夫妻が描き続けてきたことは、現実であり未来への警告でもありわたしたちが語り続けていかなくてはならないことだったのに。

以下、「からす」についての文章、丸木美術館のHPより



韓国・朝鮮人も日本人も同じ顔をしています。

被爆したむざんな姿はどこで見分けることが出来ましょう。

『原爆がおちゃけたあと、
一番あとまで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。
日本人はたくさん生き残ったが
朝鮮人はちっとしか生きの残らんぢゃったけん。
どがんもこがんもできん。
からすは空から飛んでくるけん、うんときたばい。
朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ。
からすがめん玉食らいよる』
(石牟礼道子さんの文章より)

屍にまで差別を受けた韓国・朝鮮人。
屍にまで差別した日本人。
共に原爆を受けたアジア人。

美しいチョゴリ、チマが。
飛んで行く朝鮮、ふるさとの空へ。
からす完成、謹んでこれを捧げます。
合掌。

長崎の三菱造船に強制連行された
韓国・朝鮮人約五千人が集団被爆しました。
ひろしまにも同じような話があります。

今、韓国だけでも一万五千人近くの被爆者が
原爆手帖さえなく暮らしているのです。

(原爆の図 第14部《からす》 1972年 屏風四曲一双 縦1.8m×7.2m

 


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